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ムッラー・オマルはビン・ラディン引き渡し拒否を一度も後悔せず

2022年4月20日付のタリバン機関誌「スムード」第195号には、「12年の潜伏生活におけるムッラー・オマルの最後の数年」との記事が掲載されている。同記事の執筆者アフマド・ファールッディーンは、アラブ人のジャーナリストで元アルジャジーラの記者である。そのためか同記事の初出は、アルジャジーラ・ネットであるのだが、ターリバーンがイスラーム首長国名の機関誌で掲載するということは記事の内容は概ねターリバーンの見解に近いのであろう。

この記事の中で非常に興味深いのはターリバーンの初代最高指導者ムッラー・オマルの(1)ビン・ラディン引き渡し拒否の判断(2)2001年12月の幹部会での決定(3)ビン・ラディン殺害の報に接した際の反応(4)潜伏先と死亡した場所の4点であり、その概要を紹介する。

ムッラー・オマルは、亡くなる前に一部の幹部たちの前で、アルカーイダを「陰謀や策謀によって暴虐を働く人びと」と厳しく非難した(音声スピーチが存在する)とのエピソードがある(高橋博史2021「ターリバーン最高指導者の悔悟と死」『破綻の戦略-私のアフガニスタン現代史-』白水社, 7-11頁)。同スピーチでは、ムッラー・オマルは、「陰謀や策謀によって暴虐を働く人びと(アルカーイダ)」との協働を否定し、「悪に染まった人々と過激主義」をターリバーンから排除する必要性があることを示し、その具体的な方法も指示したとされる。しかしながら、ムッラー・オマルの潜伏期間中からその最期までを振り返るターリバーンの機関紙の記事では、ムッラー・オマルの悔悟はどこにも示されていない。また、ビン・ラディンの引き渡しを拒否した判断をムッラー・オマルは死ぬまで一度も後悔していないそうだ。

当時もアルカーイダはムッラー・オマルに忠誠(バイア)を誓っており、他国は攻撃しないと約束していたとされる。その中で9・11は発生した。それでもムッラー・オマルはビン・ラディンの引き渡しを頑なに拒否した。ムッラー・オマルがこの判断を一度も後悔しなかったとターリバーンが機関誌で誇らしく掲載することは何を意味するのだろうか。普通に読めば、イスラム首長国初代最高指導者(アミール=アル=ムーミニーン:信徒たちの長)を模範とし、その精神を継承する意図であろう。

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「12年の潜伏生活におけるムッラー・オマルの最後の数年」

(1)ビン・ラディンの引き渡し

9・11直後、米ブッシュ大統領のタリバン宛の書簡は、オサマ・ビン・ラディンの引き渡しか戦争の二択を迫るものであった。ビン・ラディンは、ムッラー・オマルに対してアフガニスタンの大地から他国を攻撃しないことを約束していた。そのため、ムッラー・オマルは、ビン・ラディンに電話し、9・11を非難する声明を発出するよう求めた。ところが、ビン・ラディンは9・11の攻撃を非難した一方、同攻撃への理解と満足を示した。その後、イスラム法学者の見解を踏まえたタリバンの決定は①ビン・ラディンの自発的退去と②米軍の侵攻があった場合の抗戦(ジハード)義務に要約される。ビン・ラディンの引き渡しを求め多くの訪問団がムッラー・オマルを訪れた。ムッラー・オマルの側近は、タリバン政権と国土を守るためビン・ラディンの引き渡しを助言した。しかし、ムッラー・オマルは、庇護を求めてきた者を引き渡すことはイスラムでは許されないと拒否した。最も著名な訪問団はサウジアアラビアのトルキー・ファイサル王子(元総合情報庁長官)であった。ビン・ラディンの約束違反にもかかわらずムッラー・オマルは、ビン・ラディンを引き渡すことは騎士道とイスラムに悖ると拒否した。ムッラー・オマルは、自身の権力基盤と政権が崩壊しても正しいと信じることを実行することに満足だった。ムッラー・オマルの潜伏期間中共に過ごした側近によると、ムッラー・オマルがビン・ラディンの引き渡しの拒否を後悔したことは死ぬまでに一度もなかった。

(2)ターリバーン政権崩壊前夜のムッラー・オマルの判断

米軍の激しい攻撃によってターリバーン政権が崩壊の危機にある2001年12月カブールでムッラー・オマル参加の下、今後の方針を決める幹部会が開催された。部族指導者でもあるムッラー・ナキーブは、米軍による攻撃によって市民と国土が被る惨禍を回避するため、政権をタリバンから部族指導者やムジャーヒディーン勢力へ移譲することを提案した。ムッラー・オマルはこの提案を拒否し、ジハードを指示し、戦闘員に対し、米軍がカブール入りしたら山岳地帯、村々や砂漠に散らばるよう指示した。この歴史的な決定の後、ムッラー・アブドゥッラザクなどの軍事部門のタリバン幹部は、タリバンに近い部族指導者を米軍に協力させ、タリバンが担うジハードを側面から支援させる工作を提案した。しかし、ムッラー・オマルはどのような形であれ占領者に協力することは許されないと同提案も拒否した。

(3)ビン・ラディンの殺害情報に接した際の反応

2011年5月、VOAペルシャ語のラジオ放送がビン・ラディンの殺害を報じた際、ペルシャ語を解しないムッラー・オマルは、側近になぜラジオ放送がビン・ラディンの名前を繰り返しているのか聞いた。側近はビン・ラディンがパキスタンで殺害された旨の放送内容を伝えたところ、ムッラー・オマルは一言も発しなかった。これは、ムッラー・オマルがいかに感情のコントロールに長けているかを示している。

(4)ムッラー・オマルの潜伏期間中の滞在先

米軍がムッラー・オマルの潜伏先を最後まで特定できなかった理由は、パキスタンに潜伏しているとの誤った判断にとらわれていたためだ。タリバンがムッラー・オマルの潜伏先及び死後2年間も死亡情報を秘匿できたことはタリバンの高い能力を示している。アフガン政府がムッラーオマルの死亡を発表した際、元CIA長官のデビット・ペトレイアスは、ムッラー・オマルはカラチに滞在していたので、カラチの病院で亡くなったことに間違いないだろうと語っている。しかし、ムッラー・オマルの側近によると、ムッラー・オマルは潜伏中期間中一度もパキスタンには避難していない。これはパキスタンの影響力を嫌ったムッラー・オマルの判断とされる。2013年ムッラー・オマルの容態が悪化したため、側近はパキスタンの病院で治療することを薦めたが、ムッラー・オマルはこれを拒否した。2013年4月25日ムッラー・オマルは亡くなった。側近は亡くなった場所の近くにムッラー・オマルを埋葬した後、クエッタに滞在するタリバンの幹部たちに最高指導者死亡の情報を伝えた。

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